本記事でご紹介します堀川は、遠賀川から分かれて、水巻、折尾を通り、洞海湾へと流れる人工の川です。
人工の川といいましても、作られたのは江戸時代なのです。
現在は新々堀川と呼ばれている川になります。
コンクリートなどで補強・整備されていまして昔の姿はほとんど残っていませんが、作られた当時の姿がそのまま残されている場所もあります。
本記事では、堀川(新々堀川)を眺めながらサイクリングできる道と堀川の歴史についても簡単にご紹介しております。
訪問日:2017年11月中旬 ~ 2019年6月中旬
(トップの写真は2017年12月上旬撮影)
堀川運河沿いコースの各種データ
区間 | 本城橋 ~ 中間唐戸水門 |
---|---|
距離 | 9.6km |
起伏(※) | 2 (15m) |
道幅 | 普通(歩道無しの一般道が多めですので車や歩行者に注意) |
道状況 | 良い |
アクセス (車) |
本陣橋(JR陣原駅前の有料駐車場から1.3km、洞北緑地公園 中間唐戸水門(中間市役所前駐車場(無料)から300m) |
アクセス (公共) |
本城橋(JR陣原駅より1.3km) 中間唐戸水門(筑豊電鉄 筑豊中間駅より1km、JR筑豊本線 |
※起伏はコースの標高の最低点と最高点の差を3段階で示しています。差が10m以下で「1」、20m以上が「3」とします。標高はGoogleマップのデータを使用しました。
(注)コース名は私が個人的に使用している名称で、公式名ではありません。
堀川運河沿いコースのここがポイント!
堀川運河沿いコースのおすすめポイントをいくつかご紹介します。
- 堀川の開削は福岡藩初代藩主の黒田長政の計画によるもの
- 明治時代には筑豊炭鉱の石炭輸送路として利用された
- 車返の切り通しには当時の岩盤掘削の跡が残る
- コースは一般道で子供の通行も多いため歩行者最優先で
各ポイントを順に解説していきます。
堀川運河の開削は福岡藩初代藩主の黒田長政の計画によるもの
江戸時代初期の遠賀川は、大雨のたびに氾濫して周辺の住民に多大な被害を及ぼしていました。
困惑している住民の声は、当時の福岡藩主黒田長政の耳にはいります。
長政は、自ら遠賀川の視察に訪れ、堀川の開削を決断し工事が始まりました。(1620年)
しかし、長政の死去(1623年)や黒田藩の財政悪化、現地の地質的な問題などによって、堀川開削工事は中断してしまいます。
その後に発生した大飢饉(1730年代)をきっかけとして工事が再開(1750年)されまして、1762年についに堀川は開通しました。
中間の唐戸水門も合わせて完成しています。
明治時代には筑豊炭鉱の石炭輸送路として利用された
当初の堀川の目的は治水と灌漑でしたが、同時に物流のための水路としても利用されていました。
明治に入りますと筑豊炭鉱で採取された石炭を、洞海湾経由で若松方面に運ぶルートとしても採用されるようになりました。
運搬に使われた船は、ひらた舟と呼ばれる舟が使用されていたそうです。
福岡県立折尾高校内に堀川の歴史を伝える「堀川ものがたり館」がありまして、そこに当時の「ひらた舟」が展示されているようです。
私はまだ行ったことがありませんので、近いうちにぜひ行ってみようと思っています。
その後、鉄道による石炭輸送が始まったことによって「ひらた舟」は衰退していきまして、1935年頃には水運としての堀川の使命は幕を閉じたそうです。
車返の切り通しには当時の岩盤掘削の跡が残る
洞海湾方面から折尾に向かって進んだ場合、折尾駅を過ぎてしばらく行きますと、堀川を左手に見ながら進む樹々に囲まれた薄暗い場所を通ります。
そこは車返しの切り通しと呼ばれている場所でして、堀川が開通する前は岩山でした。
その岩山を人がノミを使って掘り進むことで堀川を通すことができました。
当時、ノミを使って切り通した跡が今でも残っています。

車返しの切り通しの途中に堀川歴史公園がありまして、案内板などで堀川の歴史が紹介されていますので、興味のある方はお立ち寄りください。
コースは一般道で子供の通行も多いため歩行者最優先で
堀川運河沿いコースは車がギリギリすれ違うことができるくらいの道が大半です。
場所によっては歩行者専用道もあります。
また、川沿いには幼稚園や小学校、公園などがありまして、一般道の車の通りも少なめです。
のどかな感じの道ですので、絶対に歩行者最優先の走行でお願いします。
スピードを出したい方には向かない道だと思います。
堀川運河沿いコースの説明
本記事では、堀川下流側の本城橋から出発しまして、JR折尾駅の脇を通り、曲川を渡って、中間の唐戸水門をゴールとして説明しております。
堀川運河沿いコースのマップ情報
堀川運河沿いコースのポイント解説
※以下の丸数字は上の地図内の丸数字と対応しております。
① 本城橋
橋の東側が洞海湾になります。
ずっと東に行きますと、若松、そして若戸大橋があります。
② 新々堀川と金山川の分岐点
折尾方面に向かって右側が新々堀川です。
ちなみに、金山川は則松や永犬丸という地区を経由して、上津役(こうじゃく)の山奥に続いている川です。
③ 折尾の再開発で消える予定の部分
この辺りの新々堀川は、折尾駅周辺の再開発でフタをされて見えなくなってしまう予定です。
以前はこの辺りの両岸に柳の木があって、立ち並ぶお店と共にとても風情のある場所でした。
開発が完了しますと、この辺りはガラッと様変わりするようですが、堀川や折尾周辺の歴史がどれだけどのように残されるんでしょうか。
④ 堀川運河の歴史を伝える案内板
この辺りの道は過去にタイムスリップしたかのような感覚になる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
川の方に目をやりますと、ひらた船を漕いでいる船頭さんが目に浮かぶようです。
この場所に案内板がありまして、堀川の歴史が漫画で説明されています。



続きは現地でご覧ください。(撮影:2019年5月下旬)
すぐ上には網で覆われています切り通しが見えます。
その岩盤をノミで削って川を作ったとは驚くばかりです。
先人のご苦労が日本経済に与えた影響は計り知れないと思います。
⑤ 堀川歴史公園
近くを通っていたのに気づきませんでした。
再訪した際に見回りたいと思います。
上の④は、この公園の脇を通って奥になります。
⑥ 吉田川の伏越(ふせこし)
堀川と吉田川が立体交差(伏越というそうです)していた場所です。
川をどのように交差させるかは、現地の案内板で解説されています。
私は不覚にも案内板を横目で見ながら素通りしてしまいました・・・。いつか再訪します。
⑦~⑧ 歩行者専用道路
⑦から⑧までの区間は歩行者専用道路になりますので、手押しでお願いします。
⑨ 堀川の堰き止め地点
新々堀川はいったんここで切れます。

昔は曲川と立体交差していたようですが、私のほうでまだちゃんとした資料が見つけられていませんので説明できません。
ごめんなさい。
堀川は下の⑩から再開です。
⑩ 堀川と曲川の合流地点
昔は上の⑨とつながっていました。
詳細は調査中です。
⑪ 中間の唐戸水門
ゴールの唐戸水門です。
この脇の道は、以前に何度か車で通ったことがあるのですが、水門にはまったく気づいていませんでした。

堀川開削事業に関連した史跡をこんなにキレイに保存していただいてとてもありがたいですね。
多くの人に堀川やこの水門が果たした役割を知って欲しいです。
堀川運河沿いコースの寄り道情報
おすすめスポットやお店を見つけ次第掲載していきたいと思います。
おわりに
JR折尾駅周辺の堀川は良く知っていたのですが、そこから先には行ったことがありませんでした。
今回自転車でのんびりと散策しながら走ったことで、堀川の素晴らしさや重要さをより深く知ることができました。
もっと様々な歴史がある(実は中間の唐戸水門から先にも堀川がある、など)ようですので、さらに調査を進めたいと思います。
サイクリングコースのご紹介のつもりが堀川の歴史の記事になってしまいました。
でも、こういった歴史探索もゆるいサイクリングの楽しみのひとつですよね。
最後までお読みいただきありがとうございました!
(参考資料)
- 車返しの切り通しの現地案内板
- 中間の唐戸水門の現地案内板
- ウィキペディア「堀川(北九州)」
- 北九州市公式サイト
- 福岡県立折尾高校公式サイト内記事「堀川ものがたり館」
- 地球の歩き方 北九州市
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