長崎街道 ポタリング地図 松原(まつばら)宿~大村(おおむら)城下

松原宿の休憩所(旧松屋旅館)
撮影月:2023年10月上旬

 九州にある脇往還(脇街道)のひとつである長崎街道。

 江戸時代の重要拠点である長崎と江戸を結ぶルート上にある街道として、とても重視されていました。

 本記事では、長崎街道の松原(まつばら)宿から大村(おおむら)城下の手前までを自転車で実際に走ってみて、現地で見た街道沿いの史跡や景色などをご紹介しております。

 彼杵宿から松原宿までの街道筋は大村湾が見えることが多かったのですが、松原宿から先は内陸部分になりますので海を感じることは少なくなります。

 道も国道沿いが多くなりますので、当時の雰囲気の感じ方は控えめになります。

 でも、大通りから外れた脇道にはまだまだ街道を思わせる場所は残されていますので、十分楽しめるでしょう。

 現在、常盤橋から長崎県側の起点までを自転車で走破すべく、時間のある時に少しずつ走っています。

 長崎街道の走破(現在挑戦中)に関しましては、別記事「長崎街道 ポタリング地図 江戸時代の歴史を感じる旅日記」に書かせていただいてますが、本記事はその部分的な記事になります。

 全工程をまとめる予定の別記事の方もご覧いただければ幸いです。

(追記)

2023年10月31日に常盤橋から長崎まで走破することができました!

宿場町ごとの記事は順次追加していく予定です。

長崎街道のルートマップ(松原宿~大村城下)

 自転車で長崎街道を走行する際には、入念に事前調査を行った上で行っています。

 その際に、Googleマップのマイマップ機能で、走行ルートや史跡ポイントなどを記録していまして、そのマップを確認しながら走行してます。

 下のGoogleマップは、私が実際に走行したルートを公開用に再編集したものです。

 これが長崎街道の本ルートだ!というものではありませんので、参考程度にご利用いただければと思います。

 地図内の数字アイコンで示す場所は、以下で解説しておりますポイントになります。

長崎街道のルート解説(松原宿~大村城下)

 松原宿は、南北に走っているほぼ真っすぐな道沿いに作られた宿場町です。

 長崎街道が整備された当時は松原宿は無くて、彼杵宿から大村城下まで宿場町が無かったそうです。

 松原宿には本陣などの高級な宿場は無くて、茶屋が宿場町の中心施設でした。

松原宿の様子

 彼杵宿から松原宿方面に向かっていますと、宿場町の入り口付近(JR松原駅前付近)に墓地がありまして、そこに江戸時代に活躍していた相撲取りのお墓がありました。(地図内①)

松原宿手前の墓地にある江戸時代の関取のお墓
撮影月:2022年11月上旬

 かなり大きなお墓ですので、当時の旅人は松原宿を出入りする際に、皆さん目にしていたと思われます。

 宿場町のメインストリートは、ほぼまっすな道でした。

松原宿のほぼ真っすぐな道
撮影月:2022年11月上旬

 江戸時代には宿場町内に70軒以上の建屋があったそうですので、この道の両脇に様々な建物がならんでいたことでしょう。

 松原宿の中心部分には、旅人の休憩所として使われた茶屋がありました。(地図内②)

松原宿の茶屋跡
撮影月:2023年10月上旬

 上の写真は、茶屋跡にある石垣です。

 道を挟んで反対側にも茶屋があったのですが、明治時代からは松屋旅館として使われていたそうです。現在は、イベント施設になっています。(地図内③)

松原宿に残る旧松屋旅館
撮影月:2023年10月上旬

 茶屋の脇道を東の方に向かいますと、松原宿の守り神様だったであろう松原八幡神社があります。(地図内④)

松原宿の守り神の松原八幡神社
撮影月:2023年10月上旬

 街道筋より一段高い場所に建てられていまして、とても雰囲気の良い神社でした。

 宿場町の長崎側の出入口付近には、庄屋や高札場などがあったそうです。

 庄屋や高札場は、現在の松原小学校がある場所にありました。(地図内⑤)

松原小学校にある庄屋跡の案内板
撮影月:2023年10月上旬

 その先のよし川を渡って、大村城下に向かいます。

大村城下への道

 松原宿を出た後は、国道34号線の脇道を進んでいきます。

 しばらくすると、郡川(こおりがわ)にぶつかります。(地図内⑥)

昔は敷石の上を渡った郡川
撮影月:2023年10月上旬

 当時は川に敷石がありまして、そこを歩いて渡っていたそうです。

 敷石のあった場所がどこだったのかは、今となっては判りません。

 堰がありましたので、そこを渡ろうかと思ったのですが、中間あたりにある隙間(赤矢印部分)を越えれるか心配だったので、安全を優先してやめておきました。

郡川にある堰
撮影月:2023年10月上旬

 郡川に架かる橋を渡った後は、一旦脇道に入りますが、しばらく行きますと国道34号線に合流します。

 合流した後は、ほぼ直線に続いています国道沿いの歩道をひたすら進みます。

 特に史跡や案内板などはありませんし、交通量も多めの国道でしたので、街道筋の雰囲気はあまり感じられませんでした。

 3.5kmほど進んだところで、国道から外れて脇道に入ります。(地図内⑦)

 そこから先は、比較的交通量の少ない片道一車線の道を進んでいきます。

 しばらく進んでいますと、途中で車の離合が困難な路地に入ります。

 入ってすぐのところに、長崎街道の標識(赤丸部分)を見つけました。(地図内⑧)

長崎街道の標識
撮影月:2023年10月上旬

 その先のT字路のところに、標石があります。(地図内⑨)

街道沿いにある標石
撮影月:2023年10月上旬

 側面に文字が彫られているようなのですが、読めませんでした。

 参考資料によりますと、「これより左そのき道」と彫られているそうです。

 T字路を右折して、これまでよりはちょっと広めの道を進みます。(地図内⑩)

長崎街道筋
撮影月:2023年10月上旬

 200mほど進んだところで左に曲がりますが、その角に標石がありました。明治33年6月に建てられたもののようです。(地図内⑪)

街道筋の曲がり角にある標石
撮影月:2023年10月上旬

 その他の標石に彫られている文字は読めず、参考資料やネットなどでも情報を見つけられませんでした。

 左に曲がって300mくらい進んだところの左側に、観音寺跡の案内板がありました。(地図内⑫)

観音寺跡の案内板
撮影月:2023年10月上旬

 千手観音が安置されていたお寺があったそうですが、キリシタンによる焼き討ちでお寺は焼失してしまったそうです。千手観音は、幸いにも嬉野の地に持ち出されて無事だったそうです。

 その後お寺は再建され千手観音も戻ってきたそうですが、残念ながら廃寺になってしまいます。案内板には、その後の千手観音の行方については書かれていませんでした。

 大上戸川に架かる橋を渡りまして400mほど進みますと、商店街のアーケードが見えてきます。

 商店街の中が大村城下の宿場町の中心地でして、当時は本陣や脇本陣、旅籠、商店などが建ち並んでいたそうです。

 今回はここまでとさせてください。

まとめ

 本記事では、松原宿から大村城下の手前までをご紹介しました。

 松原宿までは海沿いの道でしたが、その先は内陸の方を進むために海は見えなくなります。また、街道筋は大村市内の国道沿いを通ることが多く、当時の雰囲気を感じる場所が少なかったです。

 大村藩では、江戸時代の前の1500年台にキリシタンによる焼き討ちで、藩内の神社仏閣がことごとく焼失したそうですので、それも原因のひとつかもしれません。

 でも、大村城下の先には鈴田峠越えがありますので、お腹がいっぱいになるほど当時の雰囲気を味わえます。お楽しみに。

 長崎街道沿いの地域は今後もさらに発展していくと思われますが、昔の交通の要であった道を残し続けてもらいたいですね。

 本記事に掲載しましたスポット以外にも、長崎街道沿いには見どころがたくさんあります。

 部分的でも良いですので、ぜひあなたご自身でご確認いただければと思います。

 長崎街道の全行程は下の記事をご覧いただければと思います。

 最後までお読みいただきありがとうございました!

(参考文献)

(1) 長崎街道 伊能図で甦る古の夢 著:河島 悦子

(2) 長崎街道 肥前長崎路と浜道・多良海道 (九州文化図録撰書)

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