九州にある脇往還(脇街道)のひとつである長崎街道。
江戸時代の重要拠点である長崎と江戸を結ぶルート上にある街道として、とても重視されていました。
本記事では、長崎街道の木屋瀬宿(こやのせじゅく)の西搆口から飯塚宿(いいづかじゅく)の手前までを自転車で実際に走ってみて、現地で見た街道沿いの史跡や景色などをご紹介しております。
現在、常盤橋から長崎県側の起点までを自転車で走破すべく、時間のある時に少しずつ走っています。
長崎街道の走破(挑戦中)に関しましては、別記事「長崎街道 ポタリング地図 江戸時代の歴史を感じる旅日記」に書かせていただいてますが、本記事はその部分的な記事になります。
全工程をまとめる予定の別記事の方もご覧いただければ幸いです。
長崎街道のルートマップ(木屋瀬宿(こやのせじゅく)~飯塚宿(いいづかじゅく))
自転車で長崎街道を走行する際には、入念に事前調査を行った上で行っています。
その際に、Googleマップのマイマップ機能で、走行ルートや史跡ポイントなどを記録していまして、そのマップを確認しながら走行してます。
参考文献は、本記事の最後に掲載しております。
下のGoogleマップは、私が実際に走行したルートを公開用に再編集したものです。
これが長崎街道の本ルートだ!というものではありませんので、参考程度にご利用いただければと思います。
地図内の史跡アイコンで示す場所は、以下で解説しておりますポイントになります。
長崎街道のルート解説(木屋瀬宿(こやのせじゅく)~飯塚宿(いいづかじゅく))
木屋瀬宿は、長崎街道沿いの宿場町跡の中で、当時の様子が良くわかるという意味ではトップクラスです。
街道歩きとは別に時間を作って、ゆっくり散策されることをおすすめします。
木屋瀬宿の西搆口を出ますと、すぐに遠賀川に出ます。
遠賀川は遠賀郡芦屋町にそそぐ一級河川でして、長崎街道は木屋瀬宿から飯塚宿まで遠賀川付近に沿って進んでいきます。
木屋瀬宿まではかなり起伏が激しい道のりでしたが、遠賀川に出てからは平たんな道が続きますので、当時の旅人はノンビリと旅ができたのではないでしょうか。
木屋瀬宿(こやのせじゅく)
木屋瀬宿は、木屋瀬宿記念館を筆頭にして、宿場町中に史跡や案内板があります。当時の様子がとても良くわかる宿場町跡のひとつです。
ボランティア活動も盛んでして、木屋瀬宿のガイドツアーを良く見かけます。
西搆口跡には石が積んでありました。
当時から残っている搆口の門の石垣に使われていた石材だそうです。(現地案内板より)
木屋瀬宿には、本記事でご紹介したスポット以外にも、数多くの史跡があります。ぜひお時間のある時にごゆっくり散策されてみてください。
柴田丹兵衛のお墓
木屋瀬宿を出てからはしばらく遠賀川付近を進むことになります。
参考資料に記載されているルートは現在の遠賀川河川敷周辺なのですが、はっきりとした道は残っていません。
土手沿いの県道は長崎街道とは無関係ですし、歩道も無く車の往来も激しいので、遠賀川河川敷の遊歩道を進むことにしました。
菜の花大橋の少し先の土手沿いに「六本松の一里塚跡」があるという情報を得ていたのですが、残念ながら見つけることはできませんでした。
この辺りから直方市感田(がんだ)方面に行くために土手沿いの県道を渡ります。
遠賀川の支流に沿って進んでいますと、「旧長崎街道感田村」と書かれた休憩所が。

そばには柴田丹兵衛のお墓がありました。詳細は下の案内板をご覧ください。

筑豊電鉄の感田駅の脇を抜けまして、また遠賀川河川敷に出ます。

参考資料では、この辺が本ルートになっていましたので、なにか見つかるかもしれないと思って行ってみましたが、残念ながら何もありませんでした。
頓野口渡し場跡
長崎街道は直方市街地方面に向かっているため、日ノ出橋を渡りました。当然ですが、江戸時代にこんな大きな橋があるわけがなく、当時は船で渡っていました。
それが「頓野口渡し場(とんのぐちわたしば)」です。
現在の銀杏の木は当時のままなのかは未確認ですが、このような雰囲気だったんでしょうね。
ここから直方の城下町に入っていきます。
直方の城下町
長崎街道の最終的な本ルートは直方市街を通っていますが、最初は遠賀川の対岸(東方)にルートがありました。
この辺りは直方藩(旧東蓮寺藩)だったのですが、福岡藩に吸収されたために城下町は衰退の一途をたどっていたそうです。
そんな時に、町の代表者が福岡藩に対して、城下町の中に長崎街道を通してくれるようにお願いしたところ、その願いが聞き入れられて、以前の遠賀川の対岸にあったルートから、渡し船で遠賀川を渡り城下町を通るルートに付け替えられたとのことです。
現在の直方市街地には、長崎街道というよりは城下町としての史跡が多く残されていました。
小竹町内の本ルート
直方市街地を出ますと、鞍手郡小竹町(こたけまち)に入ります。
小竹町の本ルートは、遠賀川河川敷が整備されたり田畑が作られたりと、消滅している場所が多くなります。
「長崎街道」という文字もあまり目にしないようになりました。
常盤橋から木屋瀬宿までの間では、ほぼ一里(約4km)おきに一里塚跡が確認できていましたが、木屋瀬宿を過ぎてからはしばらく見ていません。
そんな中で印象的だったのが、下の場所です。

JR勝野駅の少し先にありまして、当時の地面がそのまま残っている場所だそうです。
その前後は田んぼになっていました。
小竹町役場付近で遠賀川沿いから脇道に入ります。
500mほど進みますと貴船神社がありまして、「長崎街道と小竹」の案内板がありました。

貴船神社のすぐ先には「長崎街道 小休所跡」(所は旧字)と書かれた石碑があります。
そばには、ここが名所になった理由が書かれた案内板もありました。
もう少し行きますと、地蔵堂がありまして、参考資料では一里塚だったという記述があったのですが、現地で確認しても分かりませんでした。
そこの100m先には郡境石がありました。
郡境石から先は、消滅している本ルートのなるべく近くの道を探しながら進みます。
飯塚の市街地に入る前に、事前調査で見つけていた「オランダ屋敷跡」の石碑に寄りました。

この先を150mほど進みますと、飯塚宿に入ります。
まとめ
木屋瀬宿の西搆口から飯塚宿の手前までをご紹介しました。
市街地よりも地方のほうが街道らしい道として残っていると勝手に思っていたのですが、逆でした。
遠賀川の河川敷は、台風などによって何度も増水してしまいますと道は無くなってしまいますよね。
こればっかりはどうしようもありません。
長崎街道沿いの地域は今後もさらに発展していくと思われますが、昔の交通の要であった道を残し続けてもらいたいですね。
本記事に掲載しましたスポット以外にも、長崎街道沿いには見どころがたくさんあります。
部分的でも良いですので、ぜひあなたご自身でご確認いただければと思います。
飯塚宿から先は、次の記事をご覧ください。
長崎街道の全行程は下の記事をご覧いただければと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました!
(参考文献)
(1) 長崎街道 伊能図で甦る古の夢 著:河島 悦子
(2) 伊能大図による「筑前の長崎街道」の追跡 著:松尾 昌英
(3) 長崎街道 大里・小倉と筑前六宿内宿通り底井野往還 九州文化図録選書
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