北九州市若松区にある響灘埋立地の一角に変わった防波堤があります。
地元では「軍艦防波堤」と呼ばれていまして、過去に軍艦として使用していた船を利用して造られました。
それらの軍艦は、戦後間もない昭和23年9月、洞海湾を響灘の荒波から守るため、防波堤の役割を担って沈められました。
「冬月(ふゆづき)」「涼月(すずつき)」、そして「柳(やなぎ)」の3艦です。
「冬月」と「涼月」の2艦はコンクリートの下に眠っていますが、「柳」は「軍艦防波堤」として現在も船体を見ることができます。
訪問日:2019年6月下旬
軍艦防波堤とその周辺の解説
軍艦防波堤は、響灘埋立地の南東部にあります。
響灘大橋を渡ってから一つ目の信号を右に曲がってしばらく行くと見えてきます。
車ですとそれほどでもありませんが、公共機関と歩きで行く場合は結構大変なことになります。
工業地帯ですので民間の交通機関は少ないんですよね。
軍艦防波堤の所在地はこちらになります。
軍艦防波堤のここがポイント!
軍艦防波堤のおすすめポイントをいくつかご紹介します。
現地の案内板です。(クリックで拡大)
戦艦「大和」と共に沖縄特攻作戦に参加した「涼月」と「冬月」
「涼月」と「冬月」は、伝説の巨大戦艦「大和」と一緒に、沖縄特攻作戦「天一号」「菊水」(1945年4月)に参加しました。
2艦は第41駆逐隊として編入されました。
「涼月」は作戦中に前部砲塔付近に爆弾が命中して大破してしまいます。
「冬月」は幸い軽微な損傷程度で難を逃れ、作戦では負傷兵の救助などにあたりました。
同作戦は戦艦大和の沈没などもあり中止され、「涼月」と「冬月」はなんとか佐世保港に帰投します。
その後、若松で防波堤として眠りにつきました。
「柳」は第一次世界大戦時に地中海の海上護衛に従事
「涼月」と「冬月」は第二次世界大戦で使用された駆逐艦ですが、「柳」は第一次世界大戦時の駆逐艦です。
1917年には、当時の同盟国である英国の海軍と共に地中海で通商保護作戦に従事しています。
太平洋戦争が始まる前の1940年に軍艦としての役目を終えまして、練習船として使用されたそうです。
その後、若松で防波堤として利用されまして、現在でもその姿を見ることができます。
若松区にある高塔山公園付近に3艦の戦没者慰霊碑がある
高塔山公園の北方にある白山神社の近くに「涼月」と「冬月」、「柳」の合同慰霊碑があります。
慰霊碑の手前には、駆逐艦「柳」の双繋柱(そうけいちゅう)(双係柱とも書きます)が置かれていました。
双繋柱は船を港などに繋留するための柱のことです。2本つながっているから「双」が付いています。
ここに行くルートは、高塔山から500mほど坂を下るか、若松中学校の脇から激坂を上るか、どちらかになります。
慰霊碑の近くには駐車場はなさそうですので、車で行かれる方は高塔山の無料駐車場に停めて、徒歩か自転車で行くのが良いと思います。
自転車で行かれる方は、若松中学校付近の道から坂道を駆け上がってください。道は迷路のように入り組んでいますのでGoogleマップを駆使していただければと思います。
軍艦防波堤の情報
名称 | 軍艦防波堤(正式名称:響灘沈艦護岸) ※参考:Wikipedia |
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読み方 | ぐんかんぼうはてい (ひびきなだちんかんごがん) |
場所 | 北九州市若松区響町1丁目 (Googlemap情報) |
種類 | 文化遺産 |
指定 | 近代土木遺産2800選(土木学会) |
アクセス (車) |
現地に駐車スペースあり |
アクセス (公共) |
付近にバスなどの公共機関は見当たりません |
略歴 |
「柳」1917年5月5日竣工、「涼月」1942年12月29日竣工、 「柳」1940年4月1日除籍 1948年 防波堤として沈艦 ※参考:現地案内板 |
備考 | 参考資料:地球の歩き方 北九州市 |
駆逐艦「柳」の脇にあります説明版です(クリックで拡大)
おわりに
軍艦防波堤のある場所は、休みの日には多くの釣り人でにぎわっています。
子供連れのご家族もいらっしゃいました。
過去の悲惨な戦争を忘れないように、駆逐艦「柳」にはいつまでも軍艦防波堤として平和の大切さを伝え続けてもらいたいです。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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